【意味内容】
「まこと」を『万葉集』を中心とした上代文学の理念として捉えることは、近世の賀茂真淵の論に最も鮮明に見出される。
将“真”作为“万叶集”为中心的上古文学的理念,在近世贺茂真渊的论说中最为鲜明地可以看到。
心なり、後の世の歌は人のしわざなり。」「いにし豆の歌はは かなき如くして、よくみれば責ことなり。後の歌はことわり有 る如くしてよく見ればそら言なり」として、後世の歌は华為や こ理"におちて「そら言」であるのに対し、古代の歌は人の真情、真実な言とする。
心如此,后世之歌乃人的作为。」「昔豆之歌虽似哀伤,细看却是责备。后世之歌虽似有区别,细看却是空言」而言,后世之歌沉溺于“空言”,而古代之歌则是人的真情、真心之言。
もとより、上代においては、文武天皇元年、即位の「萱命」
原本,在上代时期,文武天皇元年,即位的“萱命”
に、「まこと」は文学理念というより、むしろ倫理的、宗教的な色彩が強いが、『含䒨筥歌集』の序に、遍昭の歌風を「歌のさま はえたれども、まことすくなし」と評して以来、文学理念として の意味を帯びるようになった。古代社会では「言」は「策」と未分化で、共に「コト」と把握されたから、「まこと」は「埧事」 であるとともにやがて「埧言」とされ、真実なる人生の事象をそ のまま直接に表現した言葉が「真言」と言い、それがおのずから美しさを備えるのは上代文学の特質と見做された。つまり、「ま こと」は真情実感をありのままに流露表白し、痛切な感動に迫ら れたとき、心幼きように表現する、素朴性、写実性、純粋性など を入゙り混ぜた文学的理念である。
对于“真”,它更倾向于伦理的、宗教的色彩,而非文学理念。然而,从《万叶集》序中遍昭的诗歌被评价为“虽有诗风,但不真”以来,“真”逐渐获得了文学理念的意义。在古代社会,“言”与“策”未分化,统称为“事”,因此“真”不仅是事实,还逐渐成为言辞,即直接表达真实人生事件的语言被称为“真言”,并且这种语言自然具备了美感,这是上代文学的特点之一。也就是说,“真”是一种真情实感的真实流露和表白,在深刻感动时朴素、写实、纯洁等特质的文学理念。
【体現】 体现
このような「まこと」は歌のみならず、物語についても言え よう。例えば、『古事記』の雄略天皇の物語をとりあげてみ よう。
这样的“真”不仅适用于歌,也适用于故事。例如,我们可以看看《古事记》中神武天皇的故事。
奋部の硛猪子」と答えた。天皇はそのらち管そうと約束して帰 られ、赤猪子は招召しを待っだが䈉挛笑奇我むなしく八十歳
他回答说是“奋部的研猪子”。天皇答应调查此事后回国,赤猪子则在等待召见时默默无闻地活到了八十岁。
上げる。天皇はいたく驚かれ、自分が昔のことを忘れで㴓の に、赤猪子が涊を灾を守り空しく青春を過ごしたことを気の毒 に思われたが、あまりに老いたのに橎きて、結婚はされずに歌を賜わった。
抬起来。天皇非常惊讶,想起过去赤猪子独自守护天空中孤独度过的青春,感到同情,但由于太老了,没有结婚,而是赐予了他一首歌。
赤猪子は、涙で丹摺の袖を濡らしてお答えした。
赤猪子用泪水湿润了丹摺的袖子回答道。
天皇は多くの禄を賜わってその䇭女を返された。
天皇赐予了许多俸禄并将那些女乐手送了回去。
ここに、雄略天皇も赤猪子も「まこと」を吐露し、赤猪子が天皇を恨むにしても、率直な心で真情を表したからこそ天皇の心も筥んだという。それは単に歌だけではなく、この話全体に ついても言えるであろう。『古事記』では天皇を約束に違反し た暴君として非難するような点はいささかもなく、赤猪子が老年に至るまで空しく待ったことをばかげた行為と咎めるわけで もない。むしろ、この両者が再会する場面における素直な自然 な歌がそのままに肯定され、感動的に語られているのである。 そこに『古事記』における人為的な道徳以前の素朴自然な人間性がありのままに流露しているのを見ることができよう。
这里,雄略天皇和赤猪子也吐露了真情,即使赤猪子对天皇怀恨在心,也因为率直地表达了真情,才让天皇感动。这不仅适用于这首歌,也适用于整个故事。《古事记》中完全没有将天皇批评为违背诺言的暴君,也没有嘲笑赤猪子到老年还徒劳等待的行为。相反,在他们重逢的场景中,自然真诚的歌被直接肯定并感动地讲述出来。在这里,可以看到《古事记》中超越人为道德的朴素自然的人性得以真实展现。
【変容】 【变革】
古代文学の性格の一つとして、素朴な真実を意味する「まこ と」は上代文学の根幹を成しているが、時代が進むにつれて、様々な方向に傾き、変容を見せることになる。
作为古代文学的一个特点,“真実”的朴素含义在上古文学中占据核心地位,但随着时代的发展,它会朝着各种不同的方向倾斜并发生变化。
上代以後になってから、「まこと」は「もののあはれ」「跑絁」「さび」「簴策」などの文学理念、文芸思潮を支える力として、日本文学の底流をなし、特に「虚実」においては、虚に対する実が根本要素であるが故に、重要な意味をもつ。
上代以后,“真”作为“物之哀”“跑尾”“寂”“杼策”等文学理念、文艺思潮的支持力量,成为日本文学的底流,特别是在“虚实”方面,由于实是对虚的根本要素,因此具有重要的意义。
は詞、即ち外面的修飾、「実」は心、即ち内面的心情)が和歌の理想とされたが、なお心を優先する主張も見られた。そし
是詞,即外面的修饰,“實”是心,即内在的心情)被当作和歌的理想,但仍然有优先强调心的主张。
だしくなおき」とも)であることに相当する。近世になると、
“大石尚之”(也可能是“大石直之”)与此相当。进入近世时期,
に見出される儒教的な「誠」の概念が日本の伝統的な「まこ と」の概念と結合することにより、「まこと」は「もののあは れ」と相補的な秩序倫理となって現れたのである。
可以被发现的儒家式的“诚”概念与日本传统的“真と”概念结合,从而“诚”表现为与“物のあらわれ”互补的秩序伦理。
近代以後、「まこと」はますます重要性をまして今日に至
近代以后,“真”越来越重要直至今日
自然し主艎、プロレタリア文学にしても、実質的には「まこと」 の発展と見られる。
自然而言,无论是无产阶级文学,其实质上都可以 seen as “真”的发展。
このように、「まこと」は「真実」という根本的意味を持ち ながら、理想性や浪漫性と結びついたり、宗教的あるいは倫理的な意味を帯びたりする傾向が見え、複襍な要素をもつ。
这样,“真”不仅具有“真实”的基本含义,还倾向于与理想性或浪漫性联系在一起,或者带有宗教的或伦理的意义,因而具有复杂的成分。
ニ あかし、きよし、さやけし
上代文学の性格の一面には神と人間との間をつなぐ紝縳性が存している。それ故、清き暗るぎ丠が尊重されるわけだが、こ の「清明」の心が理念として文学に現れてきたのは「あかし」
上代文学的性质之一是具有沟通神与人间的织缀性。因此,清明的品质被尊重,但这种“清明”的心作为理念出现在文学中则是“昭示”。
「きよし」「さやけし」であると説かれている。 「清し」「雅し」据说如此。
(一) 「あかし」と「きよし」 (一) «赤し»和«清し»
【意味内容】
「あかし」「きよし」はもともと神に対しての清浄潔管洿 れなき忠誠心を指していたが、やがて、䄳れる汚れる人間の世 における神の象徴としての天皇に対する清浄明直な忠誠心へ と変化したと考えられる。
“赤石”“清石”原本是指对神纯洁而清白的忠诚,后来被认为是指在污浊的人世间对天皇的纯洁而正直的忠诚。
【体現】 体现
(二) 「さやけし」と「きよし」 (二) “さやけし”和“きよし”
【意味内容】
「さやけし」は「あかし • きよし」と相通じているが、忠誠心ではなく、「きよし」とともに天地自然万物に対する古代人 の心を表している。「きよし」と「さやけし」はともに「清」
“さやけし”与“あかし • きよし”相通,但不是忠诚之心,“きよし”和“さやけし”共同代表古代人对天地自然万物的心。“きよし”和“さやけし”都是“清”
の字(「浄」と書く場合もあるが)に書かれるのみならず、『万葉集』の風物を描写する歌に見られるように、共に楲れな く澄明な対象に用いられ、さらに両者が重ねて歌われることに よっても、共通の性格を持っていると言うことができる。その例を『万葉集』に求めれば数少ない。
的字(有时写作“净”)仅用于书写,就像《万叶集》中用来描写自然景物的诗歌所示,两者都用于清澈透明的对象,而且当两者被叠用时,它们也具有共同的特性。在《万叶集》中找到这样的例子并不多。
【体現】 体现
(大 伴家持、巻八 • 一五六九)
(大伴家持、卷八 • 一五六九)
(大伴四網、巻四 • 五七一)
(大伴四網、卷四 • 五七一)
しも (笠朝臣金村の長歌の一部、巻六 • 九○七)
このように「きよし」も「さやけし」も対象が視覚的にも聴覚的にも澄明ではつきりしていることを表すのは一応認める が、客観的な事象の描写にとどまらず、それと同時に対象の
这样,“きよし”也“さやけし”也表示对象在视觉和听觉上都是清澈分明的,这一点是可以承认的,但不仅仅是对客观事物的描写,同时对对象
「清」によって鮕起される心の清爽な状態をも表すと説かれて いる。
“清”也被解释为表示由“清”引起的心灵清爽的状态。
(舎
(舍
(兵部先川原の歌、巻九 • 一七三七)
(兵部先川原の歌、卷九 • 一七三七)
これらはさわやかで漬い対象を見ることによって、おのずか ら心がすがすがしく清澄になることをいらのであって、対象と
这些通过冷静地观察对象就能自然让心灵变得清新明净,对象和
心情との関係をよく示すものである。 它很好地展示了与心情的关系。
第二節 中古文学の理念 第二节 中古文学的理念
- 社会背景 社会背景
文学はいつまでも政治と切っても切られない関係にある。そ れ故、中古文学を見る前に、この時代の政治状況を知らざるを えない。日本文学史の時代区分で中古と呼ばれる時代は政治史 における平安時代に相当する。即ち、柴㡀遷都の794年に始ま
文学与政治永远脱不了干系。因此,在研究中古文学之前,了解这一时代的政治状况是必不可少的。日本文学史中称为中古的时代,在政治史上相当于平安时代。即从 8 世纪中叶桓武迁都的 794 年始
1192年までの約400年を指すとされる。この平安時代はまた初期の律"夫令制苒興期、中期の摂関期と後期の院政期に分けられ る。特に九世紀より十二世紀にかけては貴族化の時代だと言え よう。この時期における貴族生活の大体を見ると、もはや家格 は生まれながらに定まり、家柄のない者は財を集めることも、官職につくことも難しい。実際の政治は先例慣習により、朝儀、公事には殆ど詩歌、管弦の遊宴を伴い、故に詩歌の遊宴や文芸的行事が一種の公儀となる観さえあった。このような社会 において、貴族の精神生活の価値や理想が情緒を中心に構成さ れたのは当然である。「みやび」といわず、「あはれ」といわ ず、これらがこの時代の道徳理想である。要するに、人間価値 の標準となるものは情緒の理解とその表現の方法にあると考え ることが出来よう。
被认为指的是从 1192 年之前的约 400 年。这一平安时代又可以分为初期的律令制形成期、中期的摄关期和后期的院政期。特别是从 9 世纪到 12 世纪,这是一个贵族化的时代。这一时期贵族生活的大概情况是,家格已经生来就定好了,没有家柄的人聚集财富或担任官职都很困难。实际上的政治是通过先例和习惯进行的,朝仪、公事几乎都伴随着诗歌、音乐和宴会,因此诗歌的宴会和文艺活动甚至成为了一种公事。在这种社会中,贵族的精神生活价值和理想以情感为中心构成是理所当然的。“幽玄”或“哀”就是这个时代道德理想的代名词。换句话说,衡量人的价值标准在于对情感的理解和表达方法。
ニ 文学の理念 二 文学的理念
(一) みやび (一) 优雅
中古は政治的に貴族が中心であった。初期の天皇親政の時代
中古时期政治上以贵族为中心。初期的天皇亲政时代
からやがて振関政治に移行するが、摂関政治は、結局貴族が自分の子女を入内些させ、その生んだ皇子を帝位に就かせることに よって、自ら外戚として、天皇幼少のときは揕政となり、天皇成人の場合は関韭となって政権を専らにするのである。そし て、後宮に娘を入れ、后妃とするのが権勢獲得の源泉である ため、はなはだ意を用いたのであり、これに従う女房も、才色優れた女性を多数選んだのである。このような政治的社会的基盤の上に生まれた中古の文化は、当然貴族文化であり、その中心が宮廷文化であり、特に女房たちを中心とした後宮文学は目覚しい発展を見せたので、中古は女流文学が最も高揚した時代 だったと言える。だから、都雅、高貴、悠美、上品を尊び、地方的、庶民的な粗野、素朴、年を品を嫌った中古文学の理念を表すものとして、「みやび」が出現したと考えられる。
从这里逐渐过渡到摄关政治,而摄关政治实际上是贵族将自己的子女送入朝廷,让其生下的皇子继承皇位,从而自己成为外戚,在天皇幼小时担任摄政,在天皇成年后则成为关白,独揽政权。因此,将女儿送入后宫,成为后妃,成为权势获得的源泉,为此不惜花费大量财力,因此,遵循这一做法的女房也选择了众多才貌出众的女性。在这种政治和社会基础上产生的中古文化当然是贵族文化,其中心是宫廷文化,尤其是以女房为中心的后宫文学得到了显著的发展,因此可以说中古时期是女流文学最兴盛的时代。因此,“都雅、高貴、悠美、上品”被尊崇,而“地方的、庶民性的粗野、素朴、年少轻狂”则是中古文学理念的反面,被认为是“みやび”出现的原因。
【意味内容】
「みやび」の「みや」は「宮」であり、「び」は、それら しい様子を示す意の接尾語である。「宮」の所在地は「宮処」 すなわち「都」であるから、「みやび」は宮廷風、都会風とい
“みやび”的“みや”是“宫”,“び”是表示那种样子的词尾。“宫”的所在地是“宫处”,也就是“都”,所以“みやび”是宫廷风、都会风的意思
「閑」「雅」等に「ミヤビカナリ」の訓が見えるのであって、「みやび」は「都雅」「留雅」であり、優美、上品、高貴、洗
“闲”“雅”等中有“ミヤビカナリ”的训读,所以“みやび”是“都雅”“留雅”,意为优美、上品、高贵、洗练
䋨び」に対するもので、その地方的、庶民的な素朴、粗野、下
对于那种地方的、平民的朴素、粗野、下层
上代文学が「まこと」を理念とし、「まこと」に真実性とと もに素朴性が伴らとすれば、「みやび」は素朴性に対して洗練 された美として中古文学の理念とすべきであろう。さらに、賀茂真淵の言うように、上代文学に「ますらをぶり」の性格が強
上代文学以“真”为理念,如果“真”伴随着朴素性而具有真实性,“美”应当作为中古文学的理念,是对朴素性的洗练之美。此外,如贺茂真淵所说,上代文学中“ますらをぶり”的性格较强
く、中古文学が「たをやめぶり」であるとするならば、「みや び」の持つ優美 • 典雅 • やさしさは女流文学の盛時であった中古の文学によりよく現われていると言えよう。
如果中古文学是“停滞不前”的话,那么“美”的优雅、典雅、温柔则更能在中古时期女流文学盛时的文学中得到更好的体现。
【体現】 体现
ひさかた
久等了
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ
久方の光のdeoき春の日に静心なく花の散るらむ
(紀友則、『古今集』巻二 • 春歌下)
(纪友则、《古今集》卷二 • 春歌下)
白雲に翡うちかはしとふ雉の数さへみゆる秋の麦の月
白云中有翡翠般的野鸡,甚至可以看到秋天麦月的月份
(よみ人しらず、『古今集』巻四 • 秋歌上)
(无人读,《古今集》第四卷 秋歌上)
これらの歌は理智的な屈折はありながら、優美、典雅、繊細
这些歌虽然有理智的曲折,但优美、典雅、细腻
平安初期の歌物語である『伊勢物語』は125段前後の章段か らなるもので、そのうち約三分の二の段落は男女の愛情を描く ものである。中には美しい姉妹を咺間筧て、着ていた服の裾を切ってそれに和歌を書いて贈るような「みやび」の話がある。 この「みやび」は『万葉集』に「遊士」「風流士」を「みやび を」と読む流れを引くもので、「風流」「風雅」の意味であ る。『源氏物語』でも、詩歌や音楽や萆物物などの風流風雅を
平安初期的歌物语《伊势物语》由 125 段前后的小章构成,其中约三分之二的段落描绘了男女之间的爱情。其中有些故事描述了美丽的姐妹剪下自己穿的衣服的下摆,然后写上和歌赠送给对方的“美”的故事。这种“美”是从《万叶集》中“游士”“风流士”被称为“美”的传统中引申出来的,指的是“风流”“风雅”的意思。《源氏物语》中也描绘了诗歌、音乐、茶道等风流风雅的情景。
いめぎみ姫君たちを垣間見るところに、
瞥见伊势女御们的地方,
奥の方より、人おはす、と告げ聞ゆる人やあらむ、簾おろして皆入りぬ。おどろき顔にはあらず、なごやかにもてなして、やを ら隠れぬるけはひども、衣の揞もせず、いとなよよかに心苦しく て、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと榃ひ給ふ。难舀
从奥处,有人报说有人来看,垂下帘子,大家都进来了。并没有惊讶的表情,反而殷勤地招待着,虽然没有特意隐藏,衣服也没有整理,内心非常不安,觉得非常不好意思,便同情地笑了。
とあり、姫君たちの振舞い、気配の上品さ優雅さは正に「み やびかなり」である。
正如所述,公主们的举止、优雅的气质正是“美人迟暮”。
中古の貴族たちは「みやび」を追求している一方、芐衆、農民、田舎者をいやしく、荒く、恐ろしく、真の風雅を理解し えないものとして荗視している。「みやび」の世界に相対する
中古的贵族们追求“雅”,却轻蔑、粗野地看待僧众、农民、乡下人,认为他们不懂真正的风雅。“雅”的世界相对而言
たちの強く「みやび」を求めている姿が窺える。
可以看出他们强烈地寻求着“雅”的姿态。
(二) もののあはれ (二) 物的哀れ
「もののあはれ」は平安時代中期以降の成熟した文化の所産で、用語例は『大芙和物語』『宇津保物語』などにも見られる が、『源氏物語』に至って「もののあはれなりほという形容動詞とともに最も数多く見出され、内容的にも充実と深化を遂げ
“物の哀れ”是平安中期以后成熟文化的产物,词汇例证在《大和物语》《宇津保物语》等作品中也能见到,但在《源氏物语》中,“もののあはれなりほ”这一形容动词出现得最多,内容上也更加充实和深化
を取り上げて『源氏物語』の本質が「もののあはれ」を書くこ とにあったとし、さらにそれを文芸の本質として位置付けた。 それ以後、「もののあはれ」は文芸理念を表す語として、しば しば用いられるようになった。
将这一主题视为《源氏物语》的本质在于书写“物之哀”,并进一步将其作为文学的本质加以定位。此后,“物之哀”这一词语经常被用来表示文学理念。
「もののあはれ」という悲哀の感動が色濃く中古文学に出現したのは華やかな宮廷文化の裏面に隠されている矛盾、不安及びこれらによる女性の悲運な生活とは深くかかわっていると言えよう。当時、男性に頼らざるを得ない女性は後奣人に临人监
“物の哀れ”这种悲哀的感动在中古文学中色彩浓厚地出现,可以说与华丽的宫廷文化背后的矛盾、不安以及这些因素导致的女性悲惨生活有着密切的关系。当时,不得不依靠男性的女性是临人监后奣人。
また一夫多妻制のもとに、一人の男が多くの女に愛を分かつあ げく、女性はい弯も恋のはかなさを嘆く始末である。こうした女の身の上のはななき、宿世観が、濃い不安の影を女流作品に落とし、「もののあはれ」に反映されていると思われる。それ故、「もののあはれ」は仏教の「無常観」「宿世観」と何らか の関係がありそうに見え、その背後に人生や人間的存在に対す る深い仏教的思想が存在すると言えよう。
另外,在一夫多妻制下,一个男人要将爱分给多个女人,女性们只能感叹爱情的脆弱。这样的女性遭遇,加上宿世观的影响,给女性作品投下了浓厚的不安阴影,并反映在《物语哀》中。因此,《物语哀》似乎与佛教的“无常观”和“宿世观”有所关联,其背后似乎蕴含着对人生和人类存在的深刻佛教思想。
【意味と体現】 [意义与体现]
「もののあはれ」は感動を示す語で、感動の調和された情趣的な美の世界を言う。「もののあはれ」の「もの」は独立した客観物で、「あはれ」の対象であり、「あはれ」を触発する契機となるものである。この「もの」は強いもの、激しいもの、荒々しいものではなく、やさしいもの、はかないもの、かすか なものであって、優美、繊細、可憐な情趣があると見られる。
「もののあはれ」是表示感动的词语,指的是和谐的感性美的世界。「もののあはれ」中的「もの」是独立的客观物,是「あはれ」的对象,也是引发「あはれ」的契机。「もの」不是强烈、激烈、粗犷的东西,而是温柔、脆弱、微小的东西,被认为具有优雅、细腻、娇嫩的情趣。
女、心に任せぬ相愛の男女、夕暮、暁にひとり聞くかわ竹の かそかな風の音、山の端からわずかに見えるあるかなきかの細 い月などを「あはれなるもの」として挙げられる。
女、心に任せぬ相愛の男女、夕暮、暁にひとり聞くかわ竹のかそかな風の音、山の端からわずかに見えるあるかなきかの細い月などを「あはれなるもの」として挙げられる。
「あはれ」は「もの」という他者の存在を契機として高めら れた主体的感動を指し、本来底すべての感動灾表す言葉である が、後になっても忒ぱら「哀」の意として用いられるようにな り、(「悲哀」 という消極的な方向に傾き始めた。 "たこの悲哀の感動は強烈さを拒み、調和のとれた、しみじみと心に染み入るような内向的な感情であると思われる。例えば、『源氏物
「あはれ」是指在「もの」という他者の存在を契機として高められた主体的感動,本来是表示所有感動的词语,但后来也渐渐作为「哀」的意思被使用,(「悲哀」这种消极的方向开始倾斜。「たこの悲哀の感動は強烈さを拒み、調和のとれた、しみじみと心に染み入るような内向的な感情であると思われる。例えば、『源氏物語』
の悲愁と追憶など、死や出家や離別のようなこととこれに伴う悲哀的情趣がたくさん描かれている。このように、「もののあ はれ」は対象によって引き起こされる感動であり、客体的対象と主体的感情とが融合しようとする性質を持っていると言えよう。
悲伤和追忆等,以及死亡、出家、离别之类的事情和随之而来的悲哀情趣被大量描绘出来。因此可以说,“物の哀れ”是由于对象而引发的感动,具有客体对象与主体感情融合的性质。
(三)をかし (三)来看
『源氏物語』の「もののあはれ」に対して、中古文学のもう
《源氏物語》的“物の哀れ”方面,中古文学的另一
一つの重要理念として挙げなければならないのは詩枕章学』
必须提到的一个重要理念是诗枕章学
によって代表される「をかし」である。その作者である清•少
由“枕草子”代表的。其作者是清少纳言。
し、定子側の人々にとって暗雲立ち込めた不安な状況であっ た。しかし、この作品は現実とあまりに掛け離れていて、いか にも笙りなく明るい話題や宮廷の洗練された美的感覚、いわゅ る「をかし」の情趣を精一杯表現している。中流貴族の娘であ りながら自ら恃んで宮廷社交界に進出し、そこをわが理想的な雀処とした清少納言は、筆莒に尽し難い悲惨な現実を目の前に して、逆にそこから抜きん出た美的世界を描き続けなければい られなかったのだろう。
、对于定子来说,那是一个充满不安的阴云密布的状况。然而,这部作品与现实相差太远,充满了不切实际的明亮话题和宫廷精致的美感,所谓的“雅趣”。作为中流贵族的女儿,她自认为进入宫廷社交界,并将其视为自己理想的鸟居,清少纳言在面对难以言说的悲惨现实时,不得不继续描绘那个超越现实的美的世界。
【意味と体現】 [意义与体现]
『笑紧言海』によれば、「をかし」は「可笑」「可咲」と「可愛」との二系列があり、前者は滑椎の意であり、後者は賞愛、
『笑紧言海』中说,“をかし”有“可笑”“可咲”和“可愛”两个系列,前者的意思是滑稽,后者是赏爱,
等、部分的には滑稽的要素が盛られており、また、その以後の
等,部分的には滑稽的要素が盛られており、また、その以後の
た。しかし、中古文学の理念として重要なのは、賞愛、興趣の意の「をかし」である。
然而,中古文学的理念中非常重要的是“爱好”,即“をかし”。
『枕草子』において、「をかし」は「わろし」「らたて」「染亮し」の対立語として数多く出現したので、その意味す るところ寝薬しく、気持ちよき、快適な感情を指すと言え る。「春は龧、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝」のような優美 な自然の風物に対する賞美、「まだわらはなる君など、いとを
《枕草子》中,“をかし”作为“わろし”“らたて”“染亮し”的对立词,出现了很多次,可以说其意义是指舒适、愉快、惬意的情感。“春是龎、夏是夜、秋是黄昏、冬是清晨”这样的优美自然风物的赏美,“まだわらはなる君など、いとを”
かしくておはす」などの美しくかわいい容姿についての賞賛、 また、人事の面白いことによって催されるうきらきした明朗な気分などがそれである。
对柿子美丽可爱的外貌的赞美,以及由于人事上的有趣事情而产生的明朗愉快的心情等,就是这样的东西。
【「をかし」と「あはれ」】 【“をかし”和“あはれ”】
「をかし」と「あはれ」は対蹠的な概念として捉えられてい るが、実は融合する性質も有している。それは次のような「を かし」と「あはれ」の併用から了解できよう。
“哀”和“悲”被视为对立的概念,但实际上也具有融合的性质。这可以从“哀”和“悲”的并用中了解。
戦慄いて涙を落したことを清少納言が「なほあはれがられてふ るひなき出でたりしこそ、世に知らずをかしくあはれなりし か」 と言っており、一面「をかし」であると見る同時に、一面身にしみる同情の意の「あはれ」の感動を表わそうとする。
清少纳言说:“那战栗而落泪的,正是‘虽未被人知,却深深可怜之人’。”同时,一方面表现了“可悲”,另一方面也表达了令人感伤的同情之情。
恋しくてたまらず、在原業平に「老いぬればさらぬ別れのあり といへばいよいよ見まくほしき君かな」という歌を送ったのを
「いみじうあはれにをかし」と言っている。同情的な悲しみを「あはれ」をもって表わし、心情を和歌に託した風雅さに感興 を覚えて、それを「をかし」で表現することによって、内親王 の行為に対する複雑な作者の気持ちを言い表したのである。
他说:“以哀哉可伤也。”用“哀”来表达同情的悲伤,用“伤”来寄托将心情托付于和歌中的风雅之情,通过“可伤”来表达作者对内亲王的行为复杂的感受。
このように、「をかし」と「あはれ」とは同一対象に対し ても、その視点の角度の相違によって起こりうるものであり、 それだけに両者が接近する場合もあるのだが、しかし、「あは れ」がしみじみと胸に染み入るような感動で、内向的閉鎖的な
这样,“をかし”和“あはれ”虽然是对同一对象,但由于视角角度的不同,可能会产生不同的效果,因此两者有时也会接近。但是,“あはれ”往往会带来一种深深打动人心的感动,具有内向和封闭的性质
性格を有し、悲哀感を多分に内容とするのに対して、「をか し」は快適な、あるいはゆかしい対象に対して起こる開放的、知的、明朗な性格を有するものと考えられる。
性格具有并且内容多含悲哀感的话,“をかし”则被认为是对舒适的或优雅的对象产生的一种开放的、理智的、明朗的性格反应。
(四)はかなし (四)是悲叹
中古時代の女性、特に貴族の中下層に属する女性は、時代 と社会の不幸に最も触れている人たちであると言える。藤原氏 の独裁権力の下に中下層貴族は先殺与蕉の権を握られ、不安定 な日々を送っていたが、そうした階層の女性たちもこうした運命から自由ではない。また、女流文学において特に「はかな し」が意識されるのは、平安社会における女性の対男性関係に おける不安定によるところが多かったと思われる。女性にとっ ては、男性との愛情関係が「世の中」であり、一夫多妻の習俗 の中で頼りにすることのできない男性に、なお頼りすがってい くよりしかたのなかった女性の不安と動揺と失望とが「はかな し」の意識を強め、ときには虚無的なむなしささえ漂わせた。
中古时代的女性,特别是属于贵族中下层的女性,可以说是时代和社会不幸的最直接体验者。在藤原氏的独裁权力下,中下层贵族失去了先杀与蕉的权力,过着动荡不安的日子,但这些阶层的女性也无法摆脱这样的命运。另外,特别是在女流文学中,“悲凉”被特别意识到,这很大程度上是因为平安社会中女性与男性关系的不稳定。对于女性而言,与男性的爱情关系就是“世间”,在一夫多妻的习俗中,依赖于一个不可靠的男性,女性只能继续依赖和祈求,这种不安、动摇和失望使“悲凉”的意识更加浓厚,有时甚至弥漫着虚无的空虚感。
それ故、彼女たちはおのずから特有の、ものの見方、感じ方、考え方を育成していく。それは主観的、情緒的で社会的な視野に欠けるものではあったが、それ自体この時代と社会の内部にこもる痛さを代弁するものでもあったのである。
因此,她们自然而然地培养出了自己独特的看待事物、感受事物和思考问题的方式。虽然这些方式主观、情绪化且缺乏社会视角,但它们本身也是在为这个时代和社会内部的痛苦发声。
【意味と体現】 [意义与体现]
「はかなし」の意味は「弱々しい」「たよりない」「むなし い」「劤斐がない」「かりそめである」「たしかではない)な
“はかなし”的意思是“虚弱的”“不可靠的”“没有希望的”“虚幻的”“不确定的”
ねめる夜の夢をはかなみ良をどろめばいやはかなにもなりまさ るかな (在原業平、『古会集誐嚆十三 • 恋歌三)
梦中的夜恋未真成反成空也未可知(在原业平、『古会集乙羽箭十三 • 恋歌三)
(女三の宮、『源氏物語』若菜上)
(女三の宮、《源氏物語》若菜上)
このように、夢や淡雪や水の上に数をかくことなど、不確か で頼りなく心細いものを言うことが多い。
这样,梦、淡雪、水上的倒影等,往往被说成是不确切、不可靠、孤零零的东西。
「はかなし」は中古の女流日記に数多く現れてくる。藤わ蒝
“はかなし”在中古的女流日記中经常出现。藤わ蒝
『蜻蛉日記記』を書いた。この作品の中に一夫多妻の枠組の中で一夫一妻を志向した作者の、裏切られ、傷つく魂が激しい筆致 で記された。上巻末に、「なほものはかなきをおもへば、ある かなきかの心ちする、かげろふの日記といふべし」
^("® "とあり、){ }^{\text {® } と あ り 、 ~}「ものはかなし」は作品の主調音であるかのように見える。こ の「はかなし」は『蜻蛉日記』の著者が、一受領ら娘から名門 の貴公子の妻となりながら、それ故に夫の愛を独占できず、し かもなおその夫に頼らざるを得ない妻の座の不安定さから来る ものであろう。少女時代、世に流希している物語に導かれて、男女の仲や上層貴人の世界にあこがれていた藤原道網母は結婚 をきつかけに、激しく幻減へと落ちていく。というのは、兼家 という人は彼女の期待を大いに裹切って、女心に対する思いや りの欠けた漁䇼家だからである。このように、物語に傾倒し た姿勢と実人生との背背や不安定な生活状態の中で自らの人生 や運命についての認識への確認が身の上の日記を書きしめたの であろう。
『蜻蛉日記』中写真。此作品内,于一夫多妻的框架中,作者追求一夫一妻制的心愿,其被背叛、受伤的灵魂以激烈的笔触记录下来。上卷末尾写道:“然则或可思量,有思量无思量之心,谓之‘物之哀’的日记。”“物之哀”似乎成为了作品的主要基调。这里的“物之哀”可能是《蜻蛉日記》的作者,在成为一位受领家的女儿转而成为名门贵公子的妻子后,由于无法独占夫君的爱,又不得不依赖于这个地位的不稳定性所致。藤原道纲的母亲在少女时代,被流行的故事引导,憧憬着男女之间的关系和上层贵族的世界,因丈夫兼家未能满足她对女性情感的期待而陷入幻灭。因此,在这种对故事的倾注与现实生活之间的反差及不安定的生活状态下,她通过自己的日记来确认对自己人生和命运的认识。
督との生活が彈 として騒いだが、わずか一年余で為尊親王は26歳の若さで死
督与的生活作为惊扰,但在一年多后,为尊亲王在 26 岁的年龄去世
んだので二人の恋は死別の形で終わってしまい、「夢よりもは かなき世の中」という感慨だけしか残らない。
所以两人的爱情以生离死别的方式结束,留下的只有“比梦境更虚幻的世界”的感慨。
孤独な和泉式部は為尊一周忌の近づくころ、第癸に当たる敦道と親王との恋に陥ってゆく。その恋も四年半に過ぎず、敦道 の病没で終わり、その後藤わ原道長の家司藤原保替と結婚した。
孤独的和泉式部在为尊一周忌临近的时候,陷入与敦道亲王的恋情。这段恋情持续了四年半,以敦道的病逝而告终,之后她嫁给了藤原道长的家司藤原保代。
はかなしとまさしくみつる夢の世をおどろかで葠る我は人か は(敦道親王哀傷歌群)
現世の無常を思い知りながら、惚けたように過ごしている自己を我ながら怪しむ心の表れである。為尊親王との恋愛におい て感じた「夢よりもはかない世の中」を、和泉式部は再び深刻 に感じざるを得なかった。
明知现世无常,却如痴般度过自己的心态的表露。在与为尊亲王的恋爱中感受到“比梦更虚幻的世界”,和泉式部再次深刻地感受到了这一点。
第三節 中世文学の理念 第三节 中世文学的理念
- 社会背景 社会背景
1192年の鎌倉幕府の成立から1603年の江戸幕府の成立までの約400年を中世という。中世は内乱抗争が繰り返された対立の時代であった。また、政治、経済両面において、権力が貴族階級から武士階級へ交代した時代でもあった。こうした不安な時代においては、僧侶はもとより、戦乱において死に直面する武士も、斜陽階級として無輝の感を深めた貴族も、栄枯盛哀常な らぬ世相に遭遇仑跑般庶民も、ひとしく魂の救済を宗教に求 めたのである。
1192 年镰仓幕府的成立到 1603 年江户幕府的成立之间的大约 400 年被称为中世。中世是一个内乱抗争反复发生的对立时代。同时,这也是政治和经济两方面权力从贵族阶层转移到武士阶层的时代。在这种不安的时代里,不仅仅是僧侣,就连面对战乱而直面死亡的武士,以及作为夕阳阶层而感到无光的贵族,还有经历兴衰起伏世态的庶民,都向宗教寻求灵魂的救赎。
しかし、動乱の世界に背を向けでひたすら美的芸術的世界 を構築していこうとする文学があった。中世詩歌はその代表的 なものであり、貴族全盛期の平安時代の「みやび」「あはれ」
然而,有文学作品背离动荡的世界,一心构建美的艺术世界。中世纪诗歌便是其中的代表,平安时代贵族鼎盛时期的“优雅”“哀愁”
「優艶」等の美が憧憬され、中世的に深められていった。他方 では、動乱の世暞を直視し、これを写し出そうとする文学もあ った。戦記物語がその典型的なものである。ほかに、隠者文芸 や仏教説話集等があった。
“优美”等的美被向往,并在中世时期被加深。另一方面,也有直视动乱时代的文学,试图描绘出那个时代的作品。战记物语就是典型的例子。此外,还有隐者文学和佛教传说集等。
このような中世の文学理念としては、「幽玄」「余情」「娃灔」「有心」「無常」等が挙げられる。
这样的中世文学理念包括“幽玄”“余情”“娃灔”“有心”“无常”等。
ニ 文学の理念 二 文学的理念
(一)幽玄と余情 (一)幽玄与余情
【意味内容】
幽玄:和歌、連歌、能楽の用語。もともと「幽」も「玄」も同じ意味の語で、すこし赤みを帯びた黒色のことであ る。それが暗さの意から、更に転じて不分明さ、不確 かさ、わかりにくさ等の意にもなり、或は深遠とか、微妙とかの良い意味にも用いられた。原義は奥深く微妙で、とらえがたい世界を趣深く、味わいがつきない ものとして、そこに余情の美を見出すことをいう。
幽玄:和歌、连歌、能乐的用语。原本“幽”和“玄”意思相同,指的是略带赤色的黑色。从其暗淡的意思进一步转义为不分明、不确切、难以理解等意思,有时也用来表示深邃或微妙的正面含义。原义是指奥秘深邃、微妙难以捉摸的世界,将其趣味深长、意味无穷的东西作为余情之美来欣赏。
余情:表現に直接は表されず、その背後に感じられる気分、情調。特に、和歌 • 連歌 • 俳諧などで尊重された。
余情:表现中未直接显现,但能感受到的情绪、气氛。特别是在和歌、连歌、俳谐中受到重视。
【体現】 体现
「幽玄」の語は『古今集』真名序に初見で、漢詩では藤㟲
“幽玄”一词初见于《古今集》真名序,汉诗中则为藤虎
題に示された情景が直接に第一、第二句に出ていないけれど も、余情として、どこかその趣を感じさせるような技法であ る。題が詩句の表に現れず、直接的に把握しにくいけれども、余情まで味わらと、全体として題意がほのかに生かされてい る。藤原俊成の意味した「幽玄」は、表現が直接的でなく、言われていることの背後にあるものが連想によって橋渡しさ
题中所示的情景直接并未在第一、第二句中出现,但作为一种余情,仍可在某处感受到这种意境。题意并未直接呈现在诗句表面,难以直接把握,但通过余情的品味,整体上题意隐约存在。藤原俊成所意指的“幽玄”,其表达并非直接,而是通过联想架起桥梁,使背后的东西得以联结
れ、いくらか不分明性を伴いながらも、複雑かつ微妙な余情を感じさせることであり、それが一番明らかにわかるのは、典拠 を持つ表現の場合である。
然而,即使带有一定程度的模糊性,也能感受到复杂而微妙的余情,而这种情况最明显的是在有依据的表达中。
『広田社歌合』で俊成は、「武庫の海のなぎたる朝にみわ たせば眉も乱れぬ阿波の島山」(藤原実定)という歌に対し て、次のごとく批判している。
《广田社歌合》中,俊成对藤原实定的“武库の海のなぎたる朝にみわたせば眉も乱れぬ阿波の岛山”这首诗进行了如下批判:
詞をいたはらずして、また、さびたる姿、一つの体にはべる めり、「眉も乱れぬ阿波の島山」といへる、かの「黛色遥臨蒼海上」「龍門翠黛眉相対」などいへる詩、思い出でられて、幽玄にこそ見えはべれ。
词不至乱,又,寂寥之姿,一体之上,有之,谓“眉亦不乱之阿波岛山”,如“黛色遥临苍海上”“龙门翠黛眉相对”之诗,令人忆起,幽玄之境乃显。
これは先に引いた『作文大体』の余情幽玄と共通するところ の多い例である。典拠の詩句から連想される美女のおもかげが余情として間接的な趣を加えている点に実定の歌が「幽玄にこ そ見えはべれ」と評された理由を認められよう。
这是与《作文大体》中的余情幽玄有很多共同之处的例子。从典故的诗句中联想到的美女的身影以余情的形式增添了间接的趣味,这或许就是实定的歌被评价为“幽玄之中隐约可见”的原因。
俊成の「幽玄」に「さび」という内容を認めようとする説も ある。例えば、俊成の代表作とされる「劣されれば野辺の秋風身 にしみて䳝鳴くなり深草の匰」は、たぶん「さび」を重視する と言われた主要な根拠であろうが、この歌は実は『伊勢物語』
俊成的“幽玄”中承认“さび”内容的说法也存在。例如,被认为是俊成代表作的“劣されれば野辺の秋風身にしみて䳝鳴くなり深草の匰”很可能被认为是重视“さび”的主要依据,但其实这首歌实际上是《伊勢物語》
(第一、二、三段)に見える恋歌のやりとりが背景となってお り、少し仲の椧えかけた男に対し、我が身をひそやかに鳴く鶉 に喻えた女のしおらしさが、もとの濃やかな愛情を取り戻すこ とになったという歌語りが典拠である以上、俊成の「夕され ば」も優艶な恋の情趣と切り離すわけにはゆかない。
(第一、二、三段)中可以看到恋歌的对话作为背景,对于稍微疏远了的男子,女主人公以悄悄鸣叫的鶉来比喻自己的哀愁,这种歌语在恢复了原本浓烈的爱情之后,俊成的“夕されば”也无法与优雅的爱情情趣分开。
また同時代の鴨ち長明は、その歌論書『無名抄』の「近代歌体事」で幽玄について「幽玄風」とは要するに、「詞に現れぬ情、姿に見えぬ筧気」であり、それは「心にも理深く、詞に も艶極まりぬれば」と述べている。
同时,同时代的鸭长明在其歌论书《无名抄》的“近代歌体事”中关于幽玄的论述是,“幽玄风”实际上是指“词中不见的情、形中看不见的气”,他提到“心也深邃无比,词也艳丽之极”。
【幽玄の展開】 【幽玄的展开】
日本で幽玄の用例はやはり仏典に見られ、和歌の方面では『古今集』真名序に初見である。『古今集』真名序の幽玄を継
日本幽玄的用例仍然可以在佛典中见到,而在和歌方面,则初见于《古今集》真名序。《古今集》真名序的幽玄被继承
然の間の脱俗的な雅情である。世が下がって、藤原宗忠の『作文大体』に「余情幽玄体」と見えるのは、漢詩の体の扱い方の一技法を規定したものにすぎない。院政期になると、幽玄は一般用語として広く通用されると同時に、それは原義を離れて、 ただ「不明」「超俗」「上品」「情趣がある」等の意に用いら れていた。初めて幽玄を歌合判詞に用いたのは藤原基䈗であ る。藤原俊成が幽玄の開拓者であり、鴨長明は『無名抄』にお いて、幽玄の体について、幽玄の色調的属性を艶、やさし、妖艶として受容する傾向がある。定家は歌合判詞においで父の幽玄を継承し、心敬は純化し切ってさびさびとした心の艶を幽玄と受け止めた。また南北朝の光条盐筫は連歌界において、心、意地、風情、面影などにわたって広く幽玄を尊重した。室町時代になると幽玄は能楽界の美の統一原理として用いられ、近世にいたっては焦風の俳諧に引き継がれ、さらに近代にいた つては北原白 秋らの「新幽玄体」の樹立にもつながっている。
然间的脱俗雅情。世道衰落,藤原宗忠的《作文大体》中提到的“余情幽玄体”,不过是规定了汉诗体制的一种技法而已。院政时期,幽玄作为通用词汇被广泛使用,同时它也脱离了原义,仅用来表示“不明”、“超俗”、“上品”、“情趣”等意思。首次在歌合判词中使用幽玄的是藤原基竹。藤原俊成被认为是幽玄的开拓者,鸭长明在《无名抄》中,将幽玄的体的色彩属性接受为艳、柔、妖艳。定家在判词中继承了父亲的幽玄,心敬则将其纯化为寂寂的内心之艳。此外,南北朝时期的光条盐筫在连歌界广泛尊重幽玄,涉及心、意地、风情、面影等。室町时代,幽玄作为能乐界的美学统一原理被使用,近世时期则传给了俳谐的焦风,到了近代,还与北原白秋等人创立的“新幽玄体”有关。
(二) 妖艶 (二) 妖艳
【意味内容】
和歌、連歌の用語。原義は主として女の容姿や花の色架等が感覚的になまかしく美しいこと、また、時にはそういう女性を
和歌、连歌的用语。原义主要是女性的容貌或花的颜色等感官上娇美可爱的事情,有时也指这样的女性
まま多く見られる。歌論用語としては、微妙に屈折した詞つつ きの美しさ、夢幻的に組み立てられた意味構造のやまかしい余情や景気、面影などの縹 渺とした感触などをいう。
往往可以见到。作为歌论用语,指的是微妙地曲折的词之美、梦幻般构建的意义结构的朦胧余情或气氛、面影等隐约的感触。
【体現】 体现
艶の美意識を確立したのは藤原俊成である。俊成の歌風は明らかに「優艶」を主調とするもので、俊成の尊重した優艶さ は、藤原定家にいたり、「妖艶」へと傾斜する。例えば、定家 の「春の夜の夢の淁橋とだえして峰に別るる横雲の空」は疑い もなく妖艶風の代表作である。しかし、性質としては「優艶」
确立了美的意识的是藤原俊成。俊成的诗歌风格明显是以“优美”为主调的,俊成所尊重的优美,在藤原定家那里发展为“妖艳”。例如,定家的“春の夜の夢の淁橋とだえして峰に別るる横雲の空”毫无疑问是妖艳风格的代表作。然而,性质上来说“优美”
も「妖艶」も広義の「艶」に属するものである。
也包括“妖艳”在内的“艳”属于广义的“艳”。
風かよふ寝ざめの袖の篟の香にかをる篟の春の夜の夢
风吹拂未眠的袖中的篟香令我想起篟的春夜之梦
(三)有心 (三)有意
【意味内容】
和歌、連歌の用語。藤原俊成によって確立された「幽玄」の歌風はその子定家によって「有心」としてとらえられる。「有心」は中古において「無心」に対して、心がある、思慮分別が ある、深い心がある等の意で用いられた。
和歌、連歌的术语。藤原俊成确立的“幽玄”的歌风被其子定家视为“有心”。“有心”在中古时期用来表示有心、有思虑分别、有深刻的心等意思。
定家の『毎月抄』によれば、有心体の歌は「よくよく心を澄まして、その一境に入りふしてこそ、鉌にも詠まるる事はは べれ」と説かれている。歌を詠むとき、さまざまに動く心を静 め、一つの方向に集中するのが「心を澄まし」であり、また「境」は、認識される対象を意味する仏教語で、それに「入り ふす」即ち深く入り込むとは、対象を深い層で正しく認識する ことに他ならない。つまり、定家の「有心」は「幽玄」が潜在的に志向していた「姿なき真実」への精神集中を顕在化させた もので、そうした精神集中が表現面にありありと感じられる歌 を、特に有心体と称したものであろう。
定家在《每月抄》中说,有心体的歌是“必须非常仔细地静下心来,深入其中,才能咏出这样的诗”。咏诗时,使各种波动的心静下来,集中于一个方向,这就是“静下心来”;而“境”是佛教术语,指被认识的对象,“深入其中”即深入到对象的深处,正确地认识它。也就是说,定家的“有心”是将幽玄所潜在追求的“无形的真理”具体化为精神集中,因此特别称那些在表现面上能明显感受到这种精神集中之歌为有心体。
【体現】 体现
例えば、
例如,
(定家『新古今集』巻一 • 春歌上)
(定家《新古今集》卷一 • 春歌上)
かきやりしその焦警の筋ごとにうち茯すほどは面影ぞ立つ
其焦灼的肌理中分明可见
前者は「夢の浮橋」の語をもって、『源氏物語』の浮舟物 語 の世界を想起させ、後者は和泉式部の「黒髪の乱れも知らずう ち伏せばまづかきやりし人ぞ恋しき」(『後拾遺集』巻十三、恋三)を本歌にして「黒髪の筋ごとに」と官能的な表現がらか がわれ、いずれも余情妖艶そのものであるといえよう。
前者以“梦的浮桥”之语让人想起《源氏物语》中的浮舟物语的世界,后者则以和泉式部的“黑发的乱也知不,俯首便已亲吻,最先爱恋之人啊”(《后拾遗集》卷十三,恋三)为本歌,官能性的表现令人难以抗拒,两者都可以说是余情妖艳之极。
【有心の展開】 【有意的发展】
俊成の「幽玄」にしても定家の「有心」にしても、いずれも余情象徵を志向し、その情緒内容が「艶」「やさし」を期する ところに共通点が見られるが、ただ俊成の「幽玄」の情緒内容 は「あはれ」「心細し」「寂びたり」という傾向が多く見られ るのに対して、定家の「有心」は俊成の「艶」を一層推し進め た「妖艶」の世界が多く見られる。
俊成的“幽玄”和定家的“有心”,两者都倾向于余情象征,情绪内容都追求“艳”和“婉”,但俊成的“幽玄”情绪内容多倾向于“哀哉”、“心细”、“寂寥”,而定家的“有心”则更多展现了比俊成的“艳”更进一步的“妖艳”世界。
「有心」を表現上の理念として挙げたのは定家の『毎月抄』 が最初で、それ以前の平安時代の歌論、歌合判詞では「心あ り」の語で示される。その場合の「心」は「あれこれと思い巡 らしている作家の心の働き」といら理知的側面に着目する例と
将“有心”作为表现上的理念,最早提出的是定家在《每月抄》中,而在平安时代的歌论和歌合判词中,则是通过“心あり”的词语来表示。在这种情况下,“心”是指关注作家思维活动的理智方面。
「深く思い入れた作者の心」という心境的側面に注目する例と に区別できる。『毎月抄』に論じられた「歌の本意」とする
可以区分出关注心境方面“作者深深投入的心”的例子和“歌的本意”这一概念。
「有心体」はその後者を継承すると見られる。その後『患悓抄』『患秘䒚』等の定家仮託の偽書は有心体を更に細分化する が、それらは読み手にいかにして和歌的な心を身に付けさせる かを目的に述べられたのである。
“有心体”似乎继承了后者。此后,定家假托的伪书《患悓抄》《患秘䒚》等进一步细分化了有心体,但它们的目的在于教导读者如何培养和歌般的心境。