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ドイツ租界の沿江大路に建てられた二番目の建物は、ドイツ系の独華銀行大楼 (1908 年竣工)(図 2-18)である。濃厚に漂わせたドイツ風の領事館の隣に あるにも関わらず、イタリア式ルネサンス様式が採用された。これは当時の租界 で銀行建築のデザインとして流行していた様式である。一階が営業用、二階が支店長の住宅として使っていた。開放的なべランダを迴らせ、漢口の気候に合わせ て通風を良くしてある。その設計者はヘンリッチ・ベッカー (Henrich Becker) (図 2-19) で、上海を本拠地にして中国各地で活躍していたドイツ人建築家 である。彼は、シェリン (Schwerin) に生まれ、ミュンヘンで(Munich)建築設計を習い、5 年間、エジプト政府の仕事をして、1898 年にドイツ人のはじめ ての建築家として上海に来た。中国最初の鉄筋コンクリート造の作品、露清銀行上海本店は彼の設計である。ベッカルは上海でC.ベエデッカルと共同事務所を 開設して、天津、漢口、北京、済南などで、ドイツ系、ロシア系資本が中国に造 った主要な建物を多く請け負うことになった。漢ロでは、ロシア租界に漢口華露道勝銀行、中国人町にある徳華技術工程学院を設計、施工監督した。1911 年 4 月ベッカーはオーストリアを経由してドイツに帰国した。(注 74)
德租界苏江大道上的第二座建筑是德资独资银行大楼(1908 年建成)(图 2-18)。尽管毗邻德式领事馆,具有浓郁的德国风情,但它却是按照意大利文艺复兴风格建造的,这也是当时租界内银行建筑的风格。这是当时租界流行的银行建筑设计风格。一楼用于营业,二楼是经理的住所。它有一个开放式阳台,通风良好,适合汉口的气候。该建筑由亨里奇-贝克尔(Henrich Becker)设计(图 2-19)。他出生于施维林,曾在慕尼黑学习建筑设计,为埃及政府工作过五年,1898 年作为第一位德国建筑师来到上海。他设计了中国第一座钢筋混凝土建筑--鲁盛清银行上海总部。贝克尔与 C. Böedeker 在上海开设了联合办事处,并受委托建造了德国和俄罗斯资本在中国建造的许多大型建筑,如天津、汉口、北京和济南等地。在汉口,贝克尔设计并监造了位于汉口俄租界的华俄道胜银行和位于唐人街的德华技术工程学院。(注 74)
その他の設計組織としては、ドイツ系のヘンペル (Hempel,G.L.)(韓貝工程処)があるが(注 75 )、具体的な作品は不明である。
其他设计机构包括德资汉普尔公司(汉开工程部)(注 75),但其具体工程不详。

5-3 日本人建築家のデザインと活動  5-3 日本建筑师的设计和活动

1909 年、漢口の日本租界の土地整備が完了した後、直ち上屋の公共施設の建設が始った。その中で、漢口日本総領事館が、一代目の館合(図 2-20)(一代目館舎は日本租界になかったことを確認できるが、具体的な所在地は今の資料で 判明できない。)から日本租界に移り、日本租界の 2 番地に二代目の新館舍が建設されることになった。漢口日本総領事館は、当時漢口租界に建築事務所を開い ていた日本人建築家・福井房一に館舎の設計及び監督を委託した。
1909年,汉口日租界土地开发完成后,随即开始了上屋公共设施的建设。其中,日本驻汉口总领事馆从第一号馆迁出(图 2-20)(可以确认第一号馆不在日租界内,但具体位置目前资料无法确定)。第二栋新楼建在日租界的二号楼。日本驻汉口总领事馆委托当时在汉口租界设有建筑事务所的日本建筑师福井不作和设计并监理该建筑。
まず、福井房一(1869-1937)(図 2-21)が漢口に来るまでの経緯を述べ る。福井房一は 1869 年 1 月 31 日、福岡県に生まれ、1888 年 9 月に初等技能者 の養成を目的として創設された東京工手学校(現在の工学院大学)の第二期生と して入学、1890 年 2 月に造家学科を卒業した。翌年の 1891 年 10 月にアメリカ に渡り、ニューヨークにあるジョージ・ビー・ポースト事務所で製図の作業に従事し、アメリカで 10 年ほど建築設計の研鑽を積んだ(注 76)。帰国後、帝国海
首先,介绍福井不作和(1869-1937 年)(图 2-21)来汉口之前的故事。福井不作和于 1869 年 1 月 31 日出生于日本福冈县,1888 年 9 月进入为培养初级技术人员而创办的东京工艺学校(现为工学院大学)就读二年级,1890 年 2 月毕业,获得房屋建筑学位。次年,即 1891 年 10 月,他前往美国,在纽约乔治-波斯特(George B. Porst)的事务所担任绘图员,在那里学习了约 10 年的建筑设计(注 76)。回国后,他在帝国海军陆战队工作。

軍省の建築技師として務めた。福井房一は「日露戦役の戦時」賜暇を利用し、1906 年末に上海より揚子江を遡り漢口に漫遊したところ、上海、漢口の領事より渡来 を勧誘されたことで、日本に帰った後、病気により官を辞してから、その後、上海にて三井物産会社の技師平野勇造(1864-?) と共同事業を営んだが、三ヶ月程して、何らかの事情により、事業上の関係を断ち、1908 年上海を去り、漢口日本租界に着き、建築設計の工務所の独立経営に従事した。その後、彼は、1911 年までの約 4 年間半、漢口租界にいて、唯一の日本人建築家として活躍した(注 77)。
他曾在陆军部担任建筑工程师。1906 年底,福井扶桑和利用 "日俄战争 "的闲暇,从上海沿长江溯流而上,来到汉口,受到驻上海和汉口领事的邀请,前往日本。 约三个月后,由于某种原因,他中断了业务关系,于 1908 年离开上海,来到汉口日本租界,独立经营一家建筑设计工程公司。此后,他在汉口租界工作了约四年半,直到 1911 年,是租界内唯一的日本建筑师(注 77)。
漢口日本総領事館館舎は、二階建ての領事館事務所(床面積 2135 坪)と三階建ての領事公館(床面積 2181 坪)により構成され、両館は渡廊下によって繫が れる (図 2-22(1)。その総工事費は銀 96、000 両である。その後、敷地内の 空き地に二階建ての領事館事務員の官舎と平屋の花房などが追加して建設された。
日本驻汉口总领事馆建筑由两层领事办公楼(建筑面积:2135 坪)和三层领事楼(建筑面积:2181 坪)组成,由一条走廊连接(图 2-22(1))。工程总造价为 9.6 万两白银。后来,又在原址的一块空地上增建了一座两层的领事馆职员住宅和一座一层的花房。
棟瓦・木構造二階建ての領事館事務所の平面 (図 2-22 (2) は非対称的構図であるが、軸線によって左、右の両部分に分けられる。左部分は警察局専用で、一階に警察局事務所と犯人の刑務所を設置し、二階は警察の宿舎としていた。建物の右部分は領事館専用で、一階には領事館事務所で、二階には領事館事務官の 宿舎として使っていた。
领事馆办公室是一座两层楼的木结构建筑(图 2-22 (2)),其平面布局不对称,但可以通过一条轴线将其分为左右两部分。建筑的左侧部分是警察局,一层是警察局办公室和罪犯监狱,二层是警察宿舍。建筑的右侧部分是领事馆,一楼是领事馆办公室,二楼是领事馆职员宿舍。
棟瓦・木構造三階建ての領事館公館(図 (3))は漢口にある欧米列強 の領事公館に肩を並べる豪邸である。一階には媅楽室以外、殆ど酒庫、使用人部屋、馬車置き場、倉庫などが設置されている。二階は接客用で、真ん中は広間、左側は客室で、右側は食堂と図書室である。三階には総領事一家の宿舎としてい た。建物の立面はクイーン・アン様式に塔やドームを付加して記念性を強めた、 いわゆる、日本特有の「辰野式」を採用した(図 (4))。漢口日本総領事館公館及び事務所の施工者は大倉土木組である。
领事馆楼高三层(图 (3)),是一座宫殿式住宅,可与西方列强在汉口的领事馆楼媲美。除了一楼的音乐室外,一楼的大部分房间都是酒窖、佣人房、车马场和仓库。二楼用于招待客人,中间是大厅,左侧是客房,右侧是餐厅和书房。三楼是总领事一家的住所。该建筑采用安妮女王式风格,并增加了塔楼和圆顶,以加强纪念性,这就是日本特有的所谓 "辰野式"(见图 (4))。日本驻汉口总领事馆及其办公室的建造者是大仓道北组屋(Okura Doboku Gumi)。
福井房一は、漢口租界にいる間に、日本総領事館新築を除いて、漢口日本人俱楽部 (図 ) 、漢口日本人小学校 (図 ) などの公共施設や、道路、下水の経営、三菱、三井、横浜正金、日清汽船、大阪綿花、高昌公司等、諸会社 の経営に俰る工場、倉庫等の諸工事及び武昌の湖北省諮議局(省会議事堂)(図 2-2 5 ) を設計監督した。そして、1911 年 9 月、即ち清王朝を倒した武昌蜂起の少し前に帰国した。
在汉口租界期间,福井不破和监督了汉口日本人俱乐部(图 )和汉口日本人小学(图 )等公共设施的建设,三菱、三井、横滨精进、日清汽船、大阪棉花、高昌等公司的道路和下水道、工厂和仓库的管理,以及武昌湖北省议会(省议会)的设计,但日本新总领事馆除外。他还设计并监督了武昌湖北省咨议局(省议会大厅)(图 2-25)。1911 年 9 月,在武昌起义推翻清王朝前不久,他回到了中国。
その後、再び、漢口の三菱系胡麻工場の設計依頼を受け、漢口に渡って設計を 終へ、帰途、上海日本人俱楽部(図 )、三菱合資会社上海支店(図 27 ) 及び上海の日本帝国海軍下士卒集会場などの設計監督を依頼され、1914
在回国途中,他应邀监督了上海日本俱乐部(见 )、三菱有限合伙公司上海分公司(见 )以及日本帝国海军在上海的下级军官会议厅的设计。

年までは時々中国に出張した。(注 78) 直到 2006 年,他偶尔前往中国。[注 78)。

5-4 その他の建築家のデザイン 5-4 其他建筑设计

ロシア系とフランス系の建築家は不明である。 俄罗斯和法国血统的建筑师不详。
ロシア工部局は、ドイツ系の宝利公司に依頼して設計されたもので、ドイツ 風の表現となった。ロシア警察局(図 )はクラシック系とゴシック系の 折本様式、赤棟瓦を好むクイーン・アン・リヴァイヴァル様式である。フランス 租界工務・警察局(図 )の様式はべランダ植民地様式を採用せず、中世 フランスの市政庁建物の雾囲気に溢れている。1901 年に完成した仏蘭西-インド シナ銀行(図 2 - 3 0)はベランダ植民地様式である。1905 年竣工した棟瓦造 り三階建てのアメリカ領事館(図 )は、漢口に珍しく、同時期上海で大流行していたクイーン・アン・リヴアイヴアル様式を採用し、湾曲した壁と無装飾のままの赤棟瓦は印象的である。
俄罗斯工程部是委托德资 Houli 公司建造的,因此具有德国式的表达方式。俄罗斯警察署(图 )采用安妮女王复兴风格,折叠风格为古典和哥特式,屋顶偏爱红色瓦片。 法租界工程警察署(图 )没有采用维兰达殖民风格,但充满了中世纪法国城市政府建筑的风格。与汉口不同的是,它采用了当时在上海非常流行的安妮女王式(Queen Anne Rive Ivual)风格,弧形的墙壁和不加任何装饰的红色屋脊瓦非常引人注目。
以上のように、イギリス系通和洋行、景明洋行、ドイツ系のW. ウッツアー、 シェルベルグ、シュルター設計事務所、ドイツ人建築家ローザー・マークス(宝利公司)、ヘンリッチ・ベッカー、日本人建築家福井房一などが漢口租界に活躍 した。これら租界第二世代の西洋人建築家には、二つの特徴がある。一つは正規 の建築教育を受けたことと、もう一つは、ほとんど沿海の都市(特に上海)から 内陸の武漢に流入し、仕事が終わった後、次の仕事の場に流動していくである。
如上所述,英资的同和洋行、京明洋行,德资的 W.Utzer、Scherberg 和 Schluter 设计事务所,德籍建筑师 Roser Marks(宝利公司)和 Henrich Becker,以及日籍建筑师 Fusakazu Fukui 等都活跃在汉口租界。这些租界的第二代西方建筑师有两个特点。首先,他们接受过正规的建筑教育;其次,他们大多从沿海城市(尤其是上海)来到内陆城市武汉,在完成工作后,再到下一个地方工作。

第二章付注: 第 2 章 附件:

注 1 )外務省通商局(1924 年)、『在漢口帝国総領事館管轄区域内事情』、28 へ ージ。
注 1)外务省贸易局(1924 年),《帝国驻汉口总领事馆管辖范围内的情况》,第 28 页。
注 2 ) 徐公粛 (1980 年)、『上海公共租界史稿』、5 ページ。
注 2 )徐公素(1980 年),《上海公共租界史稿》,第 5 页。
注 3 ) 費成康(1991 年)、『中国租界史』、74-84 ページ。
注 3 )隋成康(1991 年),《中国租界史》,第 74-84 页。
注 4 ) 東亜同文会調査編纂部 (1924)、『支那開港場誌・第二巻』、498 ページ。
注 4)东亚同文书会研究编纂部(1924 年),《新海商志》,第 2 卷,第 498 页。
注 5 ) 費成康(1991 年)、『中国租界史』、72 ページ。
注 5 )隋成康(1991 年),《中国租界史》,第 72 页。
注 6 )李策(1991)、「漢口法租界概述」、『武漢文史資料』、1991 年第 4 期、128 ページ。
(注 6)李昭(1991 年):《汉口法租界概述》,《武汉文史资料》1991 年第 4 期,第 128 页。
注 7 ) 東亜同文調査編纂部(1924)、『支那開港場誌』、489-490ページ。
注 7)东亚通商研究编纂部(1924 年),《日本通商史料》,第 489-490 页。
注 8 ) 東亜同文調査編纂部 (1924)、『支那開港場誌』、493ページ。
注 8 )东亚通商研究编纂部(1924 年),《新开埠地志》,第 493 页。